櫛渕町へゆく、徳島へ。

櫛渕小学校、櫛渕幼稚園の「門」。
「ほんとうに、あった」と、思わず、父が呟きました。

それが、のちに剣豪神道一心流の兵法にも繋がっていたとは。

家族のルーツが、徳島県小松島市の「櫛渕町」があるらしいと聞き、
いつか両親を連れて家族揃って行こうと決めていたた計画を
今年の「秋分の日」に実行したのでした。

櫛渕の姓は、私の本名ですが、幼い頃から、
なかなか友達に正確に読んでもらえない、発音してもらえない、
という宿命を抱え、いつも「ちょっと変わっていて...」とやや遠慮気味だった私。

櫛渕公民館の館長さんに、「櫛渕町史」をお聞きし、
四国で最初の八幡神社が、ここ、櫛渕八幡神社であることや、
櫛渕城や櫛渕五山について教えていただき、
古くは、古事記・日本書紀ができる前から
櫛渕の地に人口180名という記述が残っているのには驚きました。

   

もともとは地名であった櫛渕を、
戦国の世に、その地を治めていた祖先が姓として名乗りはじめ、
いろんな歴史を経て、武田や真田とつながり、一部が上州沼田へ辿り着いたと
町史にあります。系譜は、上州沼田と徳島の櫛渕町の二つに分かれていっているのですね。

上州沼田の後閑に、私の祖先の家(分家)や本家がありますが、
そこから徳川家に剣豪として仕えた、神道一心流の櫛渕虚中軒(櫛渕宣根)は、
やはり、この系譜上にありました。今も、上野公園の不忍池にその碑が立っています。
彼についてそれ以上に詳しいことはわかりません。

その4代後の息子が、帝国陸軍中将として武漢に赴きシベリア抑留され復員したことや、
その息子は、戦後、三島由紀夫の事件を裁いた東京高裁判事であったことまでが系譜に
記されていて、それぞれが時代の荒波の渦中で生きた人物が親戚筋にいることもわかりました。

「櫛渕」という、変わった姓であったおかげで、
館長さんも私について以前報道で知っていてくださったり、両親とともに
旅をすることができ、祖先の引き合わせに心から手を合わせました。

さらに、上州沼田にある後閑の役所や学校、故郷の地方史を調べていきたいと思います。

自分らしくあるために。